「属チーム的暗黙知」と「実践知」
あきぴーさんのブログ、「野中郁次郎先生の講演資料の解説記事」の中の、野中郁次郎先生のプレゼン資料を
半分くらい、ざーっと眺めたところ。
これまであたかも「暗黙知」は × で、「形式知」は ○ で、また「属人的」も × で、
というように言われてきた(そう聞いてた)けれど、
野中先生は、
暗黙知もいったん受け入れて、肯定して、そして「SECIプロセス」でもって
「気づき」を「言葉化」することで、「暗黙知」を「形式知」に変換する
というお話しをされているようだ。
チームとして(「場」という言葉を使われてた)の体験が暗黙知として蓄積される、
それでいいんだ、すばらしいじゃないか、と。
我々の IT の仕事の中でも、例えばドキュメント化しないことが × だと言われてるけれども、
今ある資料ではどうにもならなくて(おいおい...)、
とにかく訊いて、とにかくコード見て、とにかく動かして、
そうやってかなきゃどうにもならないときもあったりする。
こうやって進んできたときのチーム内の情報量って、すごいことになっていると思う。
「あれってああだったよね、こうだったよね」と、みんなが記憶だけですごい話をしてる。
でもなんかそれで「通じてる」って感じがする。「わかってる」と思える。
...いやいや、こんなイケてないプロジェクトwのことじゃなくてもいい。
チームの中での体験を通して、そこでつかんだ「何か」があったとき、
それはまだあいまいで言葉になっていないものだったとしても、
チームで共有化され理解されてることだから、「強い」。
また、それから先の別のプロジェクトの中でも使える武器になり得るはずだ。
たとえそれが個人的な体験や感覚であったとしても、だ。
あぁ、経験ってそういうことなんだな、と、いま書いてて思った。
野中先生のことをググってて、こんなページも見つけた。
「実践知リーダー対談」
また読んでおこう。
おっと、(野中先生の)プレゼン資料の後半も、忘れずに目を通しておかなきゃ。