Some Days You Get the Bear

IT系エンジニアの、日々の気づきや考えたこと。

アジャイルはエンジニアの復権(ルネサンス)である

「ソフト屋さんて何する仕事?」と訊かれたとき、
実は、思っていることが人それぞれで随分違うのではないだろうか? と考えることがある。

なぜならば、認識される仕事とは、それぞれの人の、それまでの知識や経験がベースとなっているから
(所属する企業やそこの教育体制(業務の与え方等も含めた)に大いに依存するとは思うが)。
その枠を超えてイメージできない人もいるのではないだろうか?と感じている。
自分のやってきたことだけを以って「ソフトの仕事はこんなもの」と思い込んではいないだろうか...。


ソフトは上から下まで知ってこそ初めてわかるものだと私は思っている。

例えば、ものごとを抽象化し概念化できるからこそ、ソフトウェアが設計できるのだし、
コードを読んだときにも、コード側から設計意図を理解することができるのである。

また、コードが書けるということは、無からモノを生み出す行為であるが、
無に形を与える力こそ設計力である。
設計に裏付けされていないコードなんて、カオスでありカス!である。
コードが書けるだけならば、エンジニアとして意味がない。

だから、いつまでも偏った仕事ばかりしていてはいけないのである。

そして、仕事は設計やコーディングだけでもない。
システムや製品をつくり動かすことの全てが仕事である。


「指示を出す人」と「出されないと動けない人」の構図から抜け出せないひとがいる。
頑なにそれをを守ろうとしているようにも見える。
指示されなければやってはいけないという、刷り込みのような思い込みでもあるのではないか?とさえ感じることもあるし、
あるいはまた、よほど自分の考えに自信が持てず、全ては指示に従う方が無難と決め込んでいるのであろうか?とも思う。

しかし、その現場にやらせてもらえる雰囲気があるのなら、思い切ってそこに飛び込んでほしい。
壁を越えて世界を拡げていくことこそ、エンジニアの醍醐味のひとつではないか。
誰にだって最初はある(とは、何かの映画のセリフだけどもネ)。


アジャイルな開発プロジェクトでは、チームメンバは役割分担も曖昧で、
誰かが誰かに指示されるべきとか、そんなこと、何にも縛られてはいない。

だから、アジャイルはエンジニアの復権(ルネサンス)である、と私は思うのだ。

管理や役割から解き放たれ、みんなで何でもやろうとする、多能工であることで、
エンジニアは力を発揮することができ、またそれがエンジニアの本来の姿なのだと
アジャイルは言っているのだ。


誰にだってチームを動かす力がある。
エンジニアとして、プロジェクトや製品をこうしたいと思うのであれば、
自らがそう発言し振る舞えばいい。
誰がリーダーとか、そういうことにあまり意味がないことに、じき気づくだろう。
そしてそれはアジャイルであろうとなかろうと全く関係ないことなのである...。


(余談)
業界構造の問題や、組織のミッションの中で、偏った経験ばかりになっていることもあると思う。
まだまだ修行中の身、という方もいらっしゃるだろう。
しかし、だから、何か違うスキルが積めるチャンスが巡ってきたときには、ビビってちゃいけないでしょ。
これは自分の仕事じゃないと決めつけないで。
役割や契約がどうとか言うよりも、まず自分のスキルのために。
組織や周りが面倒見てくれないのなら、自分でどうにかしなさいな、と思います。