Some Days You Get the Bear

IT系エンジニアの、日々の気づきや考えたこと。

「暗黙的知り方」って、いい言葉だと思う

SEA関西プロセス分科会で平鍋さんのお話しを聴いた。

印象に残った言葉は

「いまここでしかわからないこと」 と 「身体(からだ)で運べ」 だ。

何度か私も経験がある---。

例えば、お客さん先でお客さんと一緒になって話をしながらやってるときの
あの「やってる感・進んでる感」だとか、
例えば、途中から入ったプロジェクトで、
つくったひとに仕様や動作を教えてもらいながら、
みんなで話しをしながらシステムのことをおぼえていって、
自分でソースを追いかけて、そういうのを何度も繰り返して
あたまの中がすごい情報量になって「一気にゴールが見えてくる感じ」だとか。

会話が生み出す密度の濃い情報の中に包まれながら仕事をしたときのあの感覚。
これが「いま・ここ感」なのか、「からだに蓄えられてる感じ」なのか、と思う。

SECI とは、まず身体が感じるものなのだ。感じるところから始まるのだ。

質疑応答の最後で前川さんがご自分たちのやり方としてお話しして下さったのが
「ドキュメントをつくらない」ということ。

普通の現場では、ポータビリティを持った形式知のほうが欲しいのだと思うが、
それをあえてやめて「いま・ここ」で「会話」でつながる「場」をつくろう、
ということなのだ。

場と会話をつくるために意識的に書きものをとり除いてしまうやり方は、
強引で反発や拒絶反応もあると思うけど、ハマればアジャイル感が深まる・加速するはずだ。

前川さんは、まずは暗黙知の共有を優先し、アジャイルを体感してみよう、とされているのだ。

ここに野中先生のお話しが出てて、「暗黙的知り方」という言葉が出てくる。
面白い、いい言葉だと思う。

(以下引用)
やっぱり「人間は、語れる以上のことを知っている」と思いますね。個別具体の細目の経験は語りきれない。
そうすると、人間は、細目を暗黙知と集積して身体化する。(...)
対話によって、自分自身でまとめて行く過程の中で(...)部分を総合して全体に到達するのですが、
(...)このように、たえず広がりながら意味を創って行くのが、暗黙的知り方なのだと思います。

尤も、それを許してしまうアジャイルに対して、怖いというか、理解できないという人もいるだろう。
それでも、ひとそのものの力が、
ひとの知のキャパシティと、その知を持ったひとがそのまま動くということが、
平鍋さんがおっしゃっていた「ダイレクトドライブ」ということが、
現場に起こす風を見たいのだ、と思う。
前川さんにはそんなプロジェクトの姿が見えているのだと思う。

アジャイルがアンチ工業化を標榜するのは
本来のひとの力とはそんなものじゃないんだよ、ということなのだ。